もし北村紗衣氏が問題ないんだったら呉座雄一氏も非公式の訓告くらいでええんちゃうんかね。
e-sportsがスポーツなのか問題ってまだ言うてるのね。そもそもスポーツもe-sportsも”ゲーム”なのであって、電子機器を使うものを最近的な言い方をすればe-sportsになるだけでしょ?。明白に分類できるやん。 多くの人が言いたいことってそもそも”e-sportsがスポーツなのか”じゃなくて、”テレビゲームをオリンピックとか国体とか部活とかそういう場面で扱いますか?、どうしますか?”やんけ。命題の時点で間違ってるのに大衆が答えだす訳ないねん。 そしてオリンピックとか国体とか部活とかそういった場面というのも個々の問題なのであってね。
オリンピックなんか、スポーツの祭典の本丸でありここで採用されることがスポーツとしての本懐みたいな扱いされてるけど、実際は只の興行屋風情なので放っておきゃいいし、国体みたいなもんは普段はみんな見向きもしないし審判も公平じゃないし、部活に至ってはそもそも体育なんて徴兵がない国ではただのお遊戯なんで教育ですらないんだからやめるべきだし。
『カエサルの休日』「第108回 『風の谷のナウシカ』を読む」を聴く。
聴き応えとしては十二分だったんだけど、こうした物語について語るという行為について考えてしまった。
かつてはこういう物語の中身やその構造、意味について語ることは好きだった。今でもそういう語りに触れることは好きだ。
しかし、現在は自分自身からそういった内容を発信しようというモチベーションが無いようだ。
自分自身が理解できていればそれで満足してしまっていて、リスナーさんもまた各個できっと同じように理解しているんだろうと思っているんだろうか。理解できていなかったら話が通じないだけでそれはそれで良いのだとしているのかもしれない。
ある意味で枯れたと言えるんだろうし…、製作者の意図を細かく理解できている自分をアピールしたいという欲求もなくなって来たのだろうね。
あと、映画の話をするメインの相手であるタケヤリさんとの会話としてそういった部分よりは、より純粋に感想を述べてどう感じたかということに重点を置いているためにそういう癖がついたというのもあるのかもしれない。